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Instagramをやめた

ついにInstagramをやめた。

以前のブログSNSに自分の写真をあげる女 - 社会不適合者の痴れ事で書いたように、インスタを見ることで仲の良い友人のことがあまり好きでなくなってしまった。

 

ブログでは1人の友人のことを書いたけれど、本当は他にもインスタを通じて、以前より好きじゃなくなった、友人が何人かいた。

 

まず、投稿が多すぎる人。

これは特にいう必要もない気がするけど、そんなに自慢したいか?っていう卑屈な自分が登場するからだ。

 

そして、恋人との写真をあげる人。

上手く説明できないのだけれど、私は恋人との写真を見ること自体はいいのだ。厳密には少し嫌だけど、まあいいのだ。

嫌なのは、恋人との写真をSNSにあげる人だ。そういう「人」を受け入れらない。

あーあげちゃうタイプの人なんだあって引いてしまう。

自分がその友人のことを好きであればあるほど、恋人との写真をSNSにあげたショックはでかい。

そして、その写真につく、大量のいいねと大勢の人がするポジティブなコメントに余計精神が蝕まれる。

 

こうして、好きな人たちを以前ほど純粋な目で見られなくなってしまったとき、インスタさえやっていなければ、この人のこと大好きなままでいられたのに、と思い、やめようかなと悩み始めた。

 

そして、いろいろ考えているうちに、そもそもインスタの何が楽しいんだっけと思えてきた。

人がどこかに出かけたときの写真や料理の写真を見ることの何が楽しいのだろうと思えてきた。ただみんな自慢してるだけやん、って。

わたしみたいな僻み妬みのオンパレードの人間には向いていないのだ。

そしたらやっている意味が分からなくなって、アカウントを消した。

 

SNSがない時代に生まれたかったなあとつくづく思う。

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残業上限月100時間未満と社畜自慢

褒められたことではないし、全くもって偉そうに言うことではないが、あまり政治に興味がない。


そんな私でも「残業上限月100時間未満で決着へ」というニュースは受け流すことができなかった。


過労死ラインがどうとか、こうとか、そりゃあ、もちろんすごく大事なんだろうけど、そういうルールとか一旦置いといても、月100時間の残業っておかしくない?クレイジーすぎん?


9時始業の会社で1時間休憩があって、8時間労働となると定時は6時になる。

んで、月の出勤日を20日とすると1日5時間残業ができちゃうわけで。

会社を出るのが23時。通勤が1時間だとすると、帰宅が24時。そっからお風呂入るとかいろいろしてたらすぐに1時。朝は6時に起きるとなる、と。

ときどきこういう日があるのは仕方ないとしても(本当はこれもいいことではないと思っています)、これが1ヶ月毎日続くことが合法化されちゃうのは、クレイジーとしか言いようがない。



あと、こういうニュースが出ると、必ずといっていいほど「月100時間くらい今でも普通に残業してるし」とか「残業代が出るなら100時間くらい平気」みたいに一種の社畜自慢しだす人がいるんだけど、これなんなんですかね。


あなたが、日頃から長時間残業していることはよく分かりました。そして、あなたはそれをこなしても身体的にも精神的に体調を崩していないのですね、すごいですね、よく分かりました。


でもだからと言って、長時間残業しいてることがいいとは思ってないですよね?残業しなくて済むように仕事量減らしたり、社員増やしたりして欲しいと思っていますよね?

長時間残業でつらいって思ったこと何度もありますよね?って言いたくなる。



電通の高橋まつりさんが自殺したときも「俺のが残業してるわ」「それくらいで自殺は甘え」みたいな声が溢れてて、お前がやってるからそれくらい残業してもいいとはならねーだろって思っていました。


結局こういう「俺のが残業してる」「それくらい普通だ」「そんなの甘えだ」「俺がお前くらいの時には毎日会社泊まっていたぞ」という社畜自慢する人たちによって、その人のいる会社が残業ありきになって、国まで残業容認に進んでいっていることも否定できないんじゃないかと。


あと上にあげた社畜自慢は健康なときには、忙しい自慢うぜえ、ミサワかよ、とか思えるんだけど、追い詰められているときにはすごいダメージなんじゃないかな。

残業が続いて、肉体的にも精神的にも疲弊しているときに、「俺のが残業してる」「それくらい普通だ」「そんなの甘えだ」と言われたら、もっと頑張らなきゃ、私が弱いんだと思ってしまう。これがうつや最悪の場合、自殺につながっていく。


社畜自慢したくなる気持ちもわかるし、つらいんだろうというのも伝わってくるんだけど、自分がこなしているから問題ないと他の人に求めるのは違うんじゃないかな。

それが少なからず悪い方向にしてるんじゃないかな、とないアタマで考えている次第です。



何よりの問題は残業が当たり前になっているこの国の慣習や仕組みなんですけどね。





カルテット第6話と東京タラレバ娘第6話

ドラマが好きだ。毎クールかなりの数のドラマを見る。

「カルテット」がとてもおもしろい。


今週第6話が放送された。

とりあえずとてもおもしろかった。

そして深かった。

伝えたいメッセージの全てを理解できてはいない気がするけどそれでも深かった。


夫婦の気持ちが少しずつ離れていく様子が夫と妻それぞれの語りから浮き彫りになっていく話だった。


様々な出来事を通じて、夫の気持ちが妻から離れていく。


様々な出来事と書いたけれど、本当にいろいろなことの積み重ねだった。小さな不満から大きな問題までいろいろ。


その中で私自身にぐさっときたシーンがあった。


夫は自分の好きな映画を妻と一緒に見るのだ。夫はそれをとても楽しみにしていた。

けれど、見ている最中に妻はいろいろと映画について口を挟んでくる、挙句には寝てしまう。


もうひとつ。

夫は交際する前に彼女に本をプレゼントしていた。おそらく夫にとってとても思い入れのあり、絶対に読んでほしい本だったのだろう。

しかし、結婚した今でもその本に挟まった栞は9ページから一向に進まない。何度見ても9ページ。ついにはその本が鍋敷きに使われる。


これらのことが積み重なって、夫は家を出て行った。



ここで、もうひとつ別のドラマ「東京タラレバ娘」を取り上げたい。


こちらも今週の回、主人公に彼氏ができて、付き合いたてほやほやのカップルの様子を描いていた。


こちらは彼女の気持ちが彼氏から離れていく話だった。


2人は映画好きということで意気投合して付き合うことに。

彼氏は自分の好きなフランス映画を彼女に見せようとする。彼女は映画好きではあるが、フランス映画は苦手。しかし付き合いたてで、なかなか言うこともできず、眠気を堪えながら必死で見る。

それが一度ならず、ずっと続いていく。


そして、ある日彼氏が、今日はあなたの好きな映画を見ようと提案する。

彼女は自分が仕事を始めるきっかけにもなった、大好きな映画を伝える。

すると彼氏はそれを頑なに否定する、それだけは見たくない、と。


これが決め手となり、彼女は別れる決意をする。



「カルテット」と「東京タラレバ娘」のこれらのエピソードは伝えたいメッセージも違うだろうし、視点も違う。


それでもこの2つの話から私が強く感じたのは、自分の趣味趣向を相手に押し付けたり、求めたりしてはいけないということ。「この映画が好き」「おもしろかった」は言ってもいいけれど、「絶対に見て」「一緒に見よう」は危険。


押し付ける側も押し付けられる側もリスクがある。

押し付ける側は、自分の好きなものを理解してくれない、ないがしろにされることに傷つく可能性がある。

押し付けられる側は、相手の趣味趣向に合わせることがストレスになっていく。



私自身よく恋人に押し付けてしまっていた。

そして、傷ついていた。だからこのドラマが身に染みた。


自分の好きなものを見て、読んで、やって、と散々ねだったけれど、相手は見てくれず、読んでくれず、やってくれず、怒ってしまった、何度も。



長い間付き合っていた彼氏がいた。

彼はかなりの読書好きだった。

私は本を読むけれど、人並みだし、読む本も限定的だ。とても読書が趣味とは言えなかった。


でもあるとき、彼が私たちの共通の趣味は読書だね、と楽しそうに言っていた。

まず、そこの認識のズレがつらかった。


もっと大きな問題を感じていた。

彼はSNSなどでおすすめの本を発信していたので、それを見て、彼の好きな本を何冊か読んだ。

でもだめだった。それなりにおもしろいとは思えるのだけれど、自分の中に強く残るようなものではなかった。

彼のおすすめの中に私の好きな作家の本が一冊あったけれど、その作家の中であまり好きでない作品だった。


逆に彼が何より好きな、一冊の本。

私はその本を最後まで読みきることができなかった。それもかなり序盤で挫折した。

それも2回挑戦して、2回ともだめだった。

私が本を読むようになった高校生以降読みきることのできなかった本はこれ以外に記憶にない。


もし仮に私が読書は趣味であると言えた場合でも、本に対する価値観は全く合っていなかった。

だから好きなものや感動するものが合うなんてそうそうないんだと思う。


自分が好きなものは相手も好きなはずだし、自分が感動するものは相手も感動するに違いないという考え方はすごく危険なのだな、と。

だからやっぱり押し付けちゃいけないのだな、と。


私と自己承認欲求 Twitter編

少し前にSNSを更新することをやめた。


元々Twitterとインスタを1ヶ月に1、2回更新する程度で決して多くはないと思う。


大した理由もないのだけれど、ふいに更新をやめようと思った。


やめてすぐの頃、「あーこれツイートしたい」」「この写真インスタにあげたい」という衝動に何度か襲われた。

そこまでして、我慢する必要は全くないのだけれど、決めたことを途中で翻したくないという頑固な性格なので更新はしなかった。


自分がツイートしたくなった具体的な内容は次のようなもの

・この1ヶ月で3回も美術館に行った。〇〇の絵に鳥肌がたった。

・映画「〇〇」はすごかった。初めて同じ映画を映画館で2回見た。※あまり有名ではない映画について

・みんなが泣いたと言っている映画「××」で、涙腺がよわよわの私が一切泣けなかった。悲しい。※大ヒット映画について


この他にも自虐ネタとか単純に笑いが取れそうなことを思いつくと書きたくなるのだけれど、上に書いたような内容が多かった。


どうやら私は美術館に行くという高尚な趣味を持っている自分をアピールしたいらしい。

マイナーな映画を見ている自分を伝え、大人気の映画の良さが分からない、人と感性が違う自分を自虐に見せかけて伝えたいらしい。


その他にもあまり売れていない女優さんの魅力について語ったり、ドラマの脚本家の名前を出し、「〇〇さんの作品ははずれがない」と言いたくなる。


私は女優を発掘したことをアピールしたいし、ドラマの出演者でもあらすじでもなく、普通みんなが知らないだろう脚本家の名前を知っているツウな自分を伝えたい、らしい。


こうやってひとつひとつ考えていくと、私がどういう自分を人に見せたいのかなんとなく分かってくる。

すごく簡単にまとめると他の人とは違う自分やみんながあまり知らないことや注目していないことを見ている、かっこいい自分をアピールしたいようだ。


驚くことに、気の向くままにツイートしていた頃の私は、こういう自分をアピールするためにツイートしていたことをあまり自覚していなかった。単純にあったことをツイートしているつもりだった。

でも身の回りにあったことを全てツイートしているわけでは当然なく、ツイートすることを取捨選択していたわけで、結局は見せたい自分のためのツイートだったのだと今は気づいた。


他の人はどうなんだろう、本当にあったこと、考えたことを気の向くままにツイートしている人もいるのかもしれない。


でも多くの人は私のように見せたい自分にまつわるエピソードをツイートするのかな、と思う。

そう思ってからは他の人のツイートの見方が少し変わったような気がする。

この人はどう見られたいのかなと、このツイートの裏にはどんな意味があるのかな、と。

その人が見せたい自分をアピールしていることを自覚しているのか、無自覚なのかは考えても分からないけれど。


ツイートをやめた私は、見られたい自分をアピールできなくなったからといって、それで自我がぐらつくこともないし、特に問題はない。元々Twitterなんかやっていなかったのだから、当たり前なのだけれど。

心の中では、脚本家に注目する自分をかっこいいと思っているけれど。


でもTwitterをとりあえずられたら不安になるとか問題が起きる人もいるのだろうなあと。

みんななんのためにSNSを更新しているのだろうか。

人によるのかな。


エスカレーターの片側

エスカレーターの片側を空ける慣習が大嫌いだ。この話を周りにすると熱くなりすぎて、引かれてしまう。

面倒くさいやつだなとも言われる。


でもどうしようもなく嫌いなのだ。


私がここで取り上げたいのは、エスカレーターと階段が横並びになっているときの話だ。


その場にエスカレーターしかなく、階段がそばにない場合、片側を空けることには何も思っていない。


でもだ、真横に階段があるときにエスカレーターの片側を空ける必要はあるのか。

急いでいる人は階段で行けばいいじゃないか。


なにより私をいらいらさせるのが、止まって乗る側に乗るために行列ができていることだ。通勤ラッシュのときにはかなり並ぶ。

片側を空けなければ、倍の人数が止まったまま乗ることができるのに、列は圧倒的に短くなるのに。


朝、決して階段を登りたくない私は行列に並びながら、心の底からいらいらしている。


ときどき、私はエスカレーターの歩くために空けてある側にあえて、立ち止まって乗る。

中二病ぽく言えば、社会への反抗だ。

とはいえ、エスカレーターの短さや混雑具合を見極めて実行するチキンだ。


今までこれをして、後ろの人に怒られたことはない。

内心舌打ちをしている人はいるかもしれないけど、直接的な被害を受けたことはない。


だって、そこらじゅうに「止まって乗ってください」「歩いてはいけません」「2列で乗りましょう」と書いてある。

見えるルールはこちらが正しい。なかなか文句を言えないのではないかと思う。


とはいえ、いつかは怒られたり、なにかされたりするかなとも思っているので、もし共感してくれて実行しようとする人は気をつけて欲しいし、何かあっても自己責任でお願いしたい。


まあこんなことを私が1人わーわー言っているだけで、現実は見えないルールが圧倒的に浸透している。


それでも、エスカレーターの片側は開けて欲しくないなあ。



SNSに自分の写真をあげる女

SNSに自分の写真を頻繁にあげる女が嫌いだ。

インスタを始めて、仲の良い友人が頻繁に自分の写真をあげていることを知り、辟易してしまった。
とても好きな友人だったのだけど、それがきっかけで以前のようには付き合えなくなってしまった。勝手に壁をつくってしまった。

彼女があげ続ける写真たちを見て抱いた感情は「かわいくないのに、そんなに自分の写真あげてんじゃねーよ」だ。

彼女の投稿が気になって仕方なかった。
更新され、見るたびにいらいらしてしまった。(見なければいいというのはこの際言わないで欲しい)

そうやって日々を過ごしているとふと気づいた。インスタには自分の写真をあげている友人がたくさんいる。景色とか料理の写真もあるけど、自分の写真の数も負けていない。

でも全く気になっていなかった。
普通に見ていた。「あーまた旅行行ってていいなー」「友達多くて羨ましいなー」と怒りなんか一切感じることなく、日々眺めていた。

おそらく興味のない相手、仲の良くない相手だと無関心なのもあるが、やはり「ブスが自分の顔晒してんじゃねーよ」ということなんだと思う。

かわいい子が自分の写真をあげていても何も思わないのだ。

余談だが、ものすごく美人なのに自分の写真をあげず、風景の写真ばかり載せているのが私の中で1番好感度が高い。

私は自分の写真は基本的にSNSにあげない。自分みたいな捻じ曲がった性格のやつに痛いと思われたくないという気持ちもゼロではないだろうが、単純に恥ずかしいという気持ちが強い。

そんな私は風景の写真をあげたりする。最近は全然更新しなくなったが、一時期は景色のいい写真が撮れるたびに投稿していた。

そんな私が一度だけ、自分が写った写真をインスタにあげてみた。すごく恥ずかしかったけれど、周りの煽りもあり、勢いで投稿してみた。すぐ消せばいいやという気持ちもあった。

その結果、今までにない数のいいねがついた。私の渾身の風景写真をはるかに超えていった。コメントもめちゃくちゃついた。
言っておくが、私は決して美人ではない。中の中だ。

この結果から察するに、世間は人物が写った写真の方が良いらしい。

ブスだから、とあーだこーだと言っている自分は少数派らしい。
それが分かった今でも私は、自分の写真をSNSにあげる友人が好きにはなれない。